概要
現在の宮内庁による区分では、天皇・皇族の墓のうち、天皇・皇后・太皇太后・皇太后のものを陵(みささぎ・りょう)、それ以外の皇太子や親王などの皇族のものを墓(はか・ぼ)と呼ぶ。 なお、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓の他にも、「追尊天皇」・「尊称天皇」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代とも、瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の墓所、日本武尊の墓所の一部および飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。
現在の宮内庁による区分では、天皇・皇族の墓のうち、天皇・皇后・太皇太后・皇太后のものを陵(みささぎ・りょう)、それ以外の皇太子や親王などの皇族のものを墓(はか・ぼ)と呼ぶ。 なお、実際には天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓の他にも、「追尊天皇」・「尊称天皇」の墓所や、いわゆる「神代三代」(日向三代とも、瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)の墓所、日本武尊の墓所の一部および飯豊青皇女(飯豊天皇とも)の墓所は「陵」を名乗っている。
天皇が大王(おおきみ)と呼ばれていた古墳時代には、その陵は巨大な前方後円墳であった(9代開化陵~30代敏達陵)。 7世紀になり、ヤマト王権が大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳、円墳へと変化し、さらに7世紀中頃から8世紀初頭まで天皇陵には八角墳が採用されるようになる(舒明陵の段ノ塚古墳、天智陵の御廟野古墳、天武・持統合葬陵の野口王墓古墳、文武陵の中尾山古墳)。このような特別な八角墳が大王にのみ採用されたのは、畿内を中心とした首長連合の盟主であった大王の地位を、一般の首長を超越して中国の天子のような唯一の最高権力者として地位を確立しようとして形に表したという解釈がある。 奈良時代から平安時代初頭にかけての天皇陵は、土葬される例(聖武天皇)や、墳丘を作ったと思われる事例(桓武天皇)を経て、仏教思想の影響により、火葬の導入(持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(嵯峨天皇、淳和天皇)などが見られるようになる。